大判例

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東京地方裁判所 昭和44年(刑わ)934号 判決

主文

1  被告人Aを懲役一年八月に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右の刑に算入する。

2  被告人Bを懲役一年四月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

3  被告人Cを懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中二七〇日を右の刑に算入する。

4  被告人Dを懲役二年四月に処する。

未決勾留日数中二五〇日を右の刑に算入する。

5  被告人Eを懲役一年八月に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右の刑に算入する。

6  被告人Fを懲役一年六月に処する。

未決留日数中一二〇日を右の刑に算入する。

7  被告人Gを懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

8  被告人Hを懲役一年八月に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右の刑に算入する。

9  被告人Iを懲役一年に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

10  被告人Jを懲役一年に処する。

未決勾留日数中一五〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

11  被告人Kを懲役一年に処する。

未決勾留日数中六〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

12  被告人Lを懲役一年に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

13  被告人Mを懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右の刑に算する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

14  被告人Nを懲役一年二月に処する。

未決勾留日数中一〇〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

15  被告人Oを懲役一年に処する。

未決勾留日数中九〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

16  被告人Pを懲役一年に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

17  被告人Qを懲役一年四月に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

18  被告人Rを懲役一年四月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

19  被告人Sを懲役一年四月に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

20  被告人Tを懲役一年四月に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

21  被告人Uを懲役一年四月に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

22  被告人Vを懲役一年二月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右の刑に算入する。

23  被告人Wを懲役一年四月に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

24  被告人Xを懲役一年に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右の刑に算入する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

25  訴訟費用は別表1ないし7のとおり被告人らの負担とする。

理由

(事実)

一東大紛争の主たる経緯

東京都文京区本郷七丁目三番一号所在の東京大学における学園紛争は、医学部の紛争を発火点とする。すなわち、昭和四一年頃から同大学医学部においては、臨床研修のあり方をめぐつてインターン制度の廃止とこれに代るべきものとしての登録医制または報告医制の導入をめぐり、学部当局または病院側と医学部自治会の学生および研修医(それは大部分全国的な青年医師連合((いわゆる青医連))に属している)側との間に対立抗争が続き、昭和四三年一月末には研修医問題で医学部学生および研修医が全学無期限ストライキを打ち、全学闘争委員会(全学闘)を結成して医学部中央館を自主管理する事態となり、医学部当局および病院と学生および研修医との間の疎隔がおきていたさなかの同年二月、上田病院長に対する学生、研修医らの研修に関する団交申込にからんでのトラブルたるいわゆる春見事件(春見医局長と学生・研修医の間の暴力沙汰とされるもの)が起き、翌三月暴力沙汰に連座したとされた学生一二名が同学部教授会によつて処分されるはめとなつた。(なお研修生四名、研究生一名も同時に病院長から処分された。)ところが、右処分のうちとくに学生粒良邦彦に対するけん責処分は、事実誤認にもとづきなされたものとして、ひとり医学部のみならず全学的な学生らの強い反撥を招いたが、全学闘の学生らは、同年六月一五日東京医科歯科大の全学闘の応援の下に右処分の白紙撤回および研修協約締結のための団交等を要求し、かつこれを契機として一挙に大学改革をおし進めようとし、その手段として東京大学の管理運営の中枢であり象徴である大講堂(通称安田講堂)を占拠するに及んだ(いわゆる第一次時計台占拠)。ここにおいて大河内一男総長(当時)は、同月一七日警視庁機動隊を導入し、占拠学生らを排除したが、学生らは占拠の背後にある医学部学生の正当な要求を理解し、根本的解決をはかる努力をつくさないままに権力的に闘争の圧殺をはかつたものとして、大河内総長のとつた警察力導入の措置に強い怒りを示し、他学部の学生らもこれに刺戟されて同調し、機動隊導入に抗議する全学ストライキに突入した結果、紛争は一挙に全学的な規模に拡大深化するに至つた。総長は、同月二八日同講堂において多くの学生と大衆会見を行い、紛争収拾のため機動隊の導入はやむを得なかつたこと、粒良処分は医学部に差戻すこと、他の一一名の処分については事情聴取方を医学部に申入れることを、を骨子とした所信を表明したが、解決の糸口とならなかつたのみならず、かえつて学生らは総長の一方的な意見表明を不満とし、同年七月二日再び学生多数は同講堂内の事務部局職員を排除し、同講堂を再封鎖して占拠し同月五日には全学共闘会議(以下「全共闘」という)を結成して、入口にバリケードを構築し、占拠の恒久化をはかつた。これによつて大学の管理機能は麻痺状態となつた。そして同月一五日には全共闘派学生らは①前記医学部処分撤回②文学部処分撤回③機動隊導入自己批判④青医連の公認⑤捜査協力の拒否⑥一月二九日以降の事態責任者の不処分⑦以上を大衆団交の場で文書で確約し、責任者は辞職することなどいわゆる七項目要求を大学当局につきつけた。そして右七項目要求を貫撤するために全学無期限スト・全学封鎖の闘争宣言を発した。これが対策に苦慮した大学当局は、同年八月一〇日には大河内総長名で①医学部処分は粒良以外の一一名について処分再審査委員会を設け結論が出るまで処分は発効以前に戻すこと②警察力導入はやむをえなかつたが事態を一層悪化させたので将来は極力避けたいこと③大学の自治と学生の自治を検討するため大学問題特別審査会を発足させることなど親書の形式をもつて解決方針を示した告示(いわゆる八・一〇告示)を発し、また八月一〇日付で豊川医学部長、上田病院長が責任をとつて辞職し、局面の打開をはかつたが、全共闘はこれをはねつけ、事態は益々悪化するばかりで爾後駒場および本郷の計八学部が逐次ストに突入、さらに医学部の中央舘、一、三号舘、工学部列品舘などの建物の占拠も同派の学生によつて行われた。かくして、同年一一月一日大河内総長は退陣のやむなきに至り、法学部長教授加藤一郎が代つて学長事務取扱(総長代行)に選任された。

而して、加藤総長代行ら大学当局は、紛争解決のための全学生の意思を結集すべく全学集会をもつことを提唱し、一一月一八日には全共闘の学生らと、また翌一九日にはいわゆる代々木系に属する統一代表団準備会、すなわちのちの東大民主化行動委員会傘下の学生ら(以下俗称にしたがい民青という)と右集会のための公開予備折衝を行い、同月二九日に提案集会を開かんとした。しかし全共闘は依然として七項目の全面承認に固執するかの如き態度を示して該集会を拒み、全学封鎖を続行した。一方夏休みあけころから、全共闘に対し自主防衛を企図し、かつ加藤総長代行の提唱する路線にのるべく統一代表団を結成して前記集会に臨もうとしている民青系の学生と全共闘との間の対立抗争は、闘争に対する主導権争いもからみ、次第に激化し、同年一一月末ころから角材(ゲバ棒)、石塊などを用いた武力闘争(内ゲバ)まで行なわれるようになり、全共闘の封鎖した図書舘を民青が解除し逆封鎖しようとした際にまた民青が後記七学部集会へ送る代表団を選出する学生大会を開いた際に、それぞれ両派間に武闘があつたほか、一二月に入つても教養学部における代表団選出にからみ、あるいは七学部との公開予備折衝が開かれんとした際にも、両派の実力行使が行なわれ、翌昭和四四年一月九日には後記七学部集会をめぐり両派の学生が互いに角材を振り、投石などして激闘し、双方に一〇〇名を超える負傷者を出すほどの事態となつた。

ところで、昭和四四年度の東大の入学試験につき、入試実施は闘争圧殺であり、東大闘争を勝利するには入試を粉砕すべきであるとする全共闘に対し大学当局はなんとかこれを実施しようと苦慮したものの、昭和四三年一二月二九日東大当局と文部省が協議の結果現状では中止のやむなきものと決定されたが、なお昭和四四年一月一五日時点で状勢が好転すれば復活する余地もあつたところ、入試復活、授業再開など正常化を主張する民青と、闘争貫撤を叫ぶ全共闘の争いのなおも続く中で、同月六日加藤総長代行は七学部との予備折衝のすえ、同月一〇日に七学部集会を開くことを決めたが、全共闘はこれを阻止しようとして、同月九日前記の如く民青と衝突するなどしたため、一応機動隊により双方を排除したものの、集会は学内では開き得ず、結局秩父宮ラクビー場で行なわれるに至つたが、この集会にも全共闘派の学生が殴り込みをかけようとして機動隊の規制をうけるしまつであつた。同集会では、大学当局と七学部学生代表との間に、①医学部処分の白紙撤回、②文学部処分は新しい処分観で再検討する、③闘争の中で行なわれた行為については追加処分を出さない、④先の警察力導入は、学生の要求を理解せず根本的解決をはかる努力をつくさず、管理者的立場にのみ重点をおいた誤りのものであつたことを認める、⑤今後も原則として学内紛争解決の手段として警察力は使わないなどのほか、⑥学生、院生の自治活動の自由、⑦捜査協力拒否、⑧八・一〇告示の廃止、⑨大学の管理運営の改革、⑩青医連の公認など一〇項目にわたる確認書が作られた。これは前記七項目要求の大部分を大学当局がのんだものであつたところから、学生の基本的要求は通つたとする民青系の学生はスト解除にまわり、医、文を除く八学部がスト解除のうえ、全共闘派によつて封鎖されていた法文一、二号舘、工学部列品舘、二、七、八号舘などの建物の封鎖解除をしたが、全共闘派の学生が反撃に出て法文一、二号舘などを再封鎖するなどのこともあつて、前年末からキャンバスに入り始めた全国の他大学生も混つてきたこともあり、対立も一段とエスカレートし、そのため、加藤総長代行は一月一三日学生に対し、「衝突阻止を訴える」声明を発し暴力沙汰をくりかえさないよう警告した。

かくして、同年一月一五日全共闘は、全国動員をかけて、東大構内において東大闘争勝利、全国学園闘争勝利、労学総決起集会を開こうとしたため、その前日、大学当局は、学外者立入り禁止の措置をとつたが効なく、全共闘を支援する反代々木系の各セクトの同盟員、シンパなど在京私立大学および地方各大学よりの上京組の相当数の学生が同月一五日東大構内に集結した。これに呼応して、民青系の学生らも、動員をかけてこれに対抗しようとし、両派の間は一触即発の状態となり、同日の集会に出た全共闘系の学生らの一部は、民青との内ゲバ、大学当局による機動隊導入に備えて、これらから安田講堂を防衛しようとして同講堂などに泊り込み、構内のコンクリート、敷石などを割つて石塊、コンクリート塊を作り、これを講堂内に搬入し、内部の階段などのバリケードの構築、窓の補強などを行う者も多数存在した。またすでに角材、鉄パイプ、火炎びん、石塊、硫酸などの薬物等も準備されていて、同講堂(前方後円形の鉄筋コンクリート造りレンガ張り建物で、主要部は四階建、西中央部に九階建の時計台があり、その両側は五階建となり、三階の西側の中央部が正面玄関となる建造物である)は、さながら巨大な要塞と化した。

これより先の一月一四日頃から、加藤総長代行は、両派の衝突の危険や学生らの占拠している建物内部で破壊が進んでいることを憂慮して警察の出動要請を検討し、また警察も一月一五日の集会で両派衝突の危険があるとみてそのための警備本部を設ける等していたところ、幸い一五日の集会は予想された事態の発生を見ずに終つたものの、その夜遅く一部全共闘系の学生らが民青系学生の占拠していた医学部二号舘を襲撃するということがあつたため、本郷構内における全施設の管理権限を有する加藤総長代行は、遂に事態の緊迫性に鑑み警察に出動してもらうこともやむをえないと判断し、同月一六日所轄の警視庁本富士警察署長に対し、文書をもつて警察官の出動を要請した。右の要請書によると、東京大学の本郷構内には多数の学外者および学生が不法占拠を続けているとともに、相当多くの兇器、危険物が搬入、強奪、貯蔵されており、このことによつて、衝突による人命、身体の重大な危険が続き、研究教育施設の極度の破壊が進行しており、これ以上放置することのできない状況におかれている。このような緊急の事態に対し、兇器、危険物の排除、退去命令に応じない不法占拠者の排除、およびそれに伴う必要な措置をとるため警察力の出動を要請する」というのが、その理由であつた。そして、同月一七日午後一一時を期して、学内者、学外者を問わず、構外への退去と本郷構内への立入りを禁止する措置に出た。民青は、これに対し、機動隊の導入は近いとみて、占拠していた建物を解除し、構内からいちはやく退去したが、全共闘派の学生はこれに応ぜず、安田講堂に立てこもり、大学当局による機動隊の導入に備えて学生の軍団編成を行い各セクト毎に守備部署を定め、断乎徹底抗戦を企図した。警視庁は、右の加藤総長代行の要請に基づき、一月一八日には第四機動隊(以下単に何機という)三一〇名、五機七一〇名、七機一五〇名、八機一五九名、放水警備車九台、防石警備車一台、警備車四台、ヘリコプター三台、翌一九日には前同様の車輛のほか四機六五〇名、五機七〇四名、七機一四八名、八機一三七名がそれぞれ出動、後記の任務に従事したが、両日準備されたガス銃は二〇〇挺、催涙弾は約一万発、うち実射されたのは約九千発(大学構外での使用分を含む)であつた。

二被告人らが本件犯行に加担した経過

被告人A、同B、同D、同Eはいずれも明治大学二部に、被告人Cは同大学一部に在学し、被告人Bを除く四名は共産主義者同盟傘下の社会主義学生同盟すなわちいわゆる社学同の統一派(ブント)に所属または同調し、被告人Cは、同大学学生会中央執行委員長、都学連副委員長、被告人Dは同大学第二政経学部自治会元委員長、被告人Eは同自治会の現委員長(当時)であり、被告人Bは同大学における社学同系の反戦青年委員会に所属していたもの、被告人Fは同志社大学商学部に在学し、社学同統一派(ブント)に所属し、同大学学友会委員長、京都府学連副委員長の地位にあつたもの、被告人G、同Hはともに同大学に在学し同派に同調していたものであり、被告人Iは東京大学法学部、同K、同Lは同大学理学部、同Mは同大学経済学部にそれぞれ在学し、同大学全共闘派(フロント系)に属し、被告人Uは同大学文学部に在学し全共闘派に属し、被告人Jは法政大学経済学部、同Nは早稲田大学社会科学部、同Pは同大学教育学部、同Oは中央大学にそれぞれ在学し、それぞれ全学連の社会主義学生戦線全国協議会(フロント)に所属、ないしは同調していたもの、被告人Qは桃山学院大学、被告人Rは和歌山大学、被告人Tは山口大学にそれぞれ在学し、ブントに同調していたもの、被告人Sは私立浪速工業高校卒業後家業の運動具店手伝に従事中ブント系の西大阪反戦青年委員会に所属していたもの、被告人Vは茨城大学理学部に、被告人Xは東洋美術学校にそれぞれ在学しいずれもブントに同調していたもの、被告人Wは群馬大医学部に在学し全学連中核派に同調していたものである。

ところで、東大生L、I、K、M、Uを除き俗に「外人部隊」と称せられる被告人らは、前記の如き東大紛争に際し、全共闘の安田講堂占拠を支援すべく、その殆どは昭和四四年一月一四日から一五日にかけての動員に応じ、一五日の前記労学総決起集会に参加したあと、遅くとも同月一七日夜までに安田講堂に入り、また前記五人の東大生も一七日夜までに安田講堂に入り、いずれも、全共闘に属する他のセクトの学生多数とともに同講堂の占拠に加わり、それぞれのセクトの分担した守備部署である四階北側会議室(ブント担当)二階南側事務室(フロント担当)二階厚生課室(中核担当)に立てこもつた。

三罪となるべき事実

第一  右全被告人らは、昭和四四年一月一七日頃から翌一八日午前七時頃までの間、多数の学生らが東京都文京区本郷七丁目三番一号所在の東京大学大講堂(通称安田講堂)において同講堂の不法占拠者の排除にあたる警察官らに対し共同して投石、火炎びん投擲、刺突などの暴行を加える目的をもつて多数の石塊、コンクリート塊、鉄パイプ、角材、火炎びんなどを同講堂の屋上、各階の廊下、窓際、部屋、階段付近などの要所に配置して集結した際、右の目的をもつて右の兇器の準備のあることを知つてこれに加わり、

第二右全被告人らは、前記講堂を管理する権限を有する同大学学長事務取扱(総長代行)加藤一郎が同月一七日午後一一時頃同講堂を占拠する多数の学生らに対し、すみやかに同大学構外へ退去するよう要求したことを遅くとも翌一八日午前八時すぎ頃までに知つたにもかかわらず、多数の学生らと共謀して、その要求に応ぜず、同月一九日午後に至るまで同講堂内にとどまり、もつて故なく退去せず、

第三被告人A、同B、同C、同D、同E、同F、同G、同H、同M、同N、同Q、同R、同S、同T、同U、同V、同Wは、多数の学生らと共謀のうえ、同月一八日午前七時すぎ頃から翌一九日午後三時すぎ頃までの間、前記講堂内の不法占拠者を排除、検挙する任務に従事中の警視庁第四、第五、第七、第八各機動隊所属の多数の警察官に対し、同講堂の四階、五階、時計台の各屋上および内部階段付近で多数の石、コンクリート塊、火炎びんを投げつけ、同講堂内二、三階に通ずる階段付近で鉄パイプ、角材などで刺突するなどの暴行を加え、もつて右警察官の前記職務の執行を妨害した

ものである。

(証拠の標目)〈略〉

(主な争点についての判断)

一、不退去罪の成否について

1被告人らの安田講堂占拠の違法性(弁論要旨第二、一、(一)の主張に対して)

弁護人らは、東大闘争の経過、目的、第二次安田講堂占拠中の同講堂に対する全共闘による管理の状況、これに対する大学当局の対応等をるる主張して、被告人らによる同講堂の占拠は正当な理由によるもので、大学当局もこれを容認していたものであり、加藤総長代行からの一片の退去通告によつて刑事法上の違法性を帯びるものではないと主張する。

しかし、昭和四三年七月二日以降の全共闘系の学生らによる安田講堂の占拠そのものについてみても、東大全体の事務部門の中枢である同講堂を、そこにいた事務職員を追い出し、入口にバリケードを作るなどして封鎖占拠するが如き行為は、たとえ、その目的とするところがいかなるものであれ、また、たとえ大学当局の学生らに対する措置・対応にいかに非難されるものがあつたとしても、さらには、たとえ占拠期間中同講堂が被告人らのいわゆる「解放講堂」として有意義に使用されたとしても、現行法秩序のもとにおいては到底、これを正当な手段として認めることのできないことは、疑いをさしはさむ余地がなく、大学当局から権限に基づいて退去要求があれば直ちに占拠者は退去しなければ、不退去罪を構成することは、明白である。また、本件の全証拠によつても、東大当局が全共闘に対し同講堂の管理権を委ねたという事実は、全くこれを認めることができないし、弁護人らがその徴表事実であるとして主張しているところの、「大学当局が昭和四三年七月四日以後はなんらの退去要求もせず、同講堂の電気、ガス、水道をとめたり、電話を切断しなかつたこと」とか、「大学当局が同講堂内の全共闘と連絡のための電話のホットラインを設けたこと」とか、「加藤総長代行が同講堂内に赴いて全共闘側と公開予備折衝をしたこと」等々の事実も、証拠上明らかな本件紛争の一連の経過に徴し、それが大学当局において同講堂の管理権を全共闘に委ねたことの証左と見えないことは極めて明らかであるばかりでなく、大学当局が学生らによる同講堂の封鎖占拠を終始不法占拠と視ていたことは、証人加藤一郎の証言により認められるところである。

以上に加えて、とくに本件退去要求が出された時点における同講堂の占拠についていうと、当時そこにいた者のうちには甚しく多数の学外者が含まれており、しかも同講堂を占拠していた東大全共闘の学生およびこれを支援する東大以外の学生らとしては、もはや、大学当局において解決可能なある一定の事項についての要求を実現する手段として同講堂を占拠するという意識ではなく、いわゆる「帝大解体」等の思想を行動で表明するもの、あるいは暴力革命を目指す行動の一環等の意味づけをして、同講堂を占拠するという態度に及んでいたものであり、また、占拠の態様も、おびただしい数量の兇器を各所に準備し、同講堂建物内部を著るしく破損、汚損して占拠を続けていたものであり、その占拠の違法性はまことに著るしいものがあつたということができる。

被告人らの同講堂占拠が正当なものであるから不退去にも正当な理由があつたとする弁護人の主張は、到底採用することができない。

2加藤総長代行の本件退去要求の適法性(弁論要旨第二、一、(二)の主張について)

弁護人らは、加藤総長代行のなした本件退去通告には、退去要求の意思が含まれておらず、また仮りに退去要求としても違法、無効であるとして、いくつかの理由を主張する。

加藤総長代行がなした本件退去要求は、「本郷構内の兇器その他の危険物を除去し、また、兇器等を使うおそれのある建物の不法占拠者を排除する必要がありますので、とくに大学の許可を受けた者以外は、学外者と学内者とを問わず、直ちに全員、本郷構外に、退去し、一月一九日午前一〇時までは本郷構内に立り入らないで下さい。」という内容のものであり、この内容に徴すれば、同代行が安田講堂等を占拠中の者らに同講堂等からの退去を求めているものであることは、まことに明瞭であり、これに退去要求の意思が含まれていないとの弁護人らの主張は、全く理解することができない不当なものといわなければならない。(弁護人らは、同代行が予め警察力の導入要請をした後に、右警察力導入に口実を与えるため、右退去通告をなしたこと、また、同代行において全共闘系の学生らが右退去通告に従うはずもないことを熟知しながらこれをなしたこと等を理由として、退去要求意思の不存在をいうものであるが、それらのことは、前記退去通告に退去要求の意思が現われているかどうかということとは、論理的に全く無関係の事柄である。)そして、加藤総長代行が当時安田講堂につき、東大における最高管理責任者として管理権限を有していたことは、証人加藤一郎の証言により明らかであり、かつ退去を要求された相手方が前に説明のとおりの不法占拠者であつたのであるから、加藤総長代行のなした本件退去要求は適法かつ有効であつたものというべきである。

弁護人らが主張しているところの、右退去要求に至るまでの大学当局または加藤総長代行の言動の数々は、本件退去要求の適法性、有効性を確定する法律判断にとつて、全く無関係の事実というべきであるが、本件退去要求をなすことの妥当性の問題としては、量刑にも関係し、一応検討に値することとも思われるので、以下若干の点につき当裁判所の判断を示しておくこととする。

(イ) まず、本件退去要求および警察力の導入が、東大総長としての公式書簡である昭和四三年一一月一日付大河内前総長の「学生諸君へ」と題する文書で表明されているところの「警察力導入という措置をとる前に、全学意思の結集と占拠学生に対する誠意ある説得によつて窮状を打開する努力を試みるべきであつた」旨のことに反するとの弁護人らの主張について検討すると、右大河内書簡自体においても、右のことについては、「生命の危険が切迫している等緊急の場合でない限り」との限定が付せられているわけであるし、また、本件においてなした加藤総長代行の警察に対する出動要請は、前認定のとおりの経過事実からも明らかなように、全共闘派の学生らが、学外から多数の同調者を動員したうえ、安田講堂などのバリケードを強化し、かつおびただしい数量の兇器等の危険物を準備配置して占拠を続け、これに実力で対決しようとする民青派学生らも学外者を動員するなどし、現に一月九日に両派の衝突があり、一月一五日夜には全共闘の者が医学部二号舘の民青系の者を襲つた事実等からみて、そのまま放置すればなお両派間に激しい実力的抗争の危険があると合理的に判断される状況下において、学内における人命、身体の重大な危険ならびに研究教育施設の極度の破壊を防止し、学内秩序を回復することを目的として行なわれたものであると認められること(証人加藤一郎の証言)、および加藤総長代行ら大学当局者は、新執行部成立以来、紛争の平和的な解決のため精力的な努力を重ねて来ていたことは本件証拠上明らかであり、その甲斐もあつて前認定のとおり秩父宮ラグビー場における七学部集会の開催、一〇項目確認書の成立、大半の学部におけるストライキ解除決議等紛争解決のきざしを見せ始めるに至つていたこと、これに反し全共闘系の学生らは、自派の要求およびその基礎にあるという理論づけの問題までも含め、大学当局がこれに全面的に屈服しなければ、容赦しない態度(すなわち、もはや交渉によって問題を解決しようとするのではなく、あくまで自派の要求を行動で示すのみという態度)に出ていて、当時、客観的にみれば、話合と説得による解決は、全共闘との間では、ほとんどありえないと考えられるような状況であつたこと等を考慮すると、本件における警察力の導入は、前記大河内書簡が反省しているような警察力導入とは全く異質のものというべきであり、その当否の問題としても、まことにやむをえない相当な措置ということができる。

(ロ) 次に、本件における警察力導入の措置は、いわゆる確認書の五、4の「緊急の場合の警察力の導入の問題については、今後両者の間で協議する。」に反し、一般的基準の設定について学生との間で合意ができないままなしたもので違法であるとの弁護人の主張について、判断する。右項目は、その文言自体に徴し、学生との間で緊急の場合の警察力の導入についての一般的基準等につき合意が成立するまでは、大学当局が一切、緊急の場合でも、警察力を導入しない旨を表わすものではないことが明らかであるから、所論は全く理由がない。

(ハ) また、弁護人らは、本件警察力の導入は、学内「紛争」解決の手段として警察力を導入しないとの「確認書」の条項に反すると主張するが、本件における警察力の導入が、単に紛争解決としてなされたものでなく、やむをえない緊急の事態においてなれさたものであることは(イ)に見たとおりである。(また、右確認書の条項には「原則として」との字句が冒頭にあるのであつて、これは、紛争解決のためであつても、ほかに方法がない場合には例外的に警察力を導入することもあることを認めた趣旨と解される((加藤一郎。「七学部代表団との確認書」の解説四二頁参照))ところ、前記のような全共闘側の自派の主張のみを相手に押しつけようとし相手の意見に耳をかそうとしない態度のもとでは、ほかに紛争を解決する方法もないといつてよい状況にあつたといいうるから、仮りにもし本件警察力の導入が紛争解決を理由になされた場合であつても、これが右確認書違反の問題は生じないものと当裁判所は考える。)

なお、本件警察力導入が、管理者的立場にのみ重点をおいた第一次安田講堂占拠に対する警察力の導入の誤りを認めた確認書五、1と矛盾するものでないことも、すでに説明したところから明らかである。

(ニ) また、弁護人、被告人らは、「加藤総長代行が、昭和四三年一二月以降において、もし入学試験を中止した場合の大学に及ぼす影響を誇大に宣伝し、これによつて学内学外の世論操作をなして危機感を煽り、全共闘を孤立させて紛争の収拾を図ろうとした。また、同月二九日の坂田文相と加藤総長代行との間の合意で、昭和四四年度の入学試験は中止することに一応決まり、その復活の可能性はほとんどなかつたのに、加藤総長代行は、たとえば昭和四四年一月四日付の文書では、『一月一五日頃までに大部分の学部でストライキが解除され、また大勢として封鎖解除の方向に進む見通しが立てられるようになれば、われわれは、あらためて入学試験断行の決定を下すつもりである。』『いま、東京大学は文字どおり存亡の岐路に立つている。』などと述べて、入試復活が現実に可能であり、また文部省と協議合意が不可欠であるものを大学が一存で入試復活を決められるように嘘をいい、入試復活と大学の存亡の危機を直線的に結びつけるなどのデマゴキーを駆使して、全共闘による封鎖は入試復活の邪魔物であるとの世論を盛り上げようとした」と同代行を激しく非難するのであるが、東京大学における入試が中止されることが、受験希望者、その親等、あるいは他の大学、さらには社会一般にもたらす不安と迷惑がまことに絶大であることはいうまでもないところであり、このような入試の重要性に鑑み、これを中止した場合には、東大当局に対し強い社会的非難が起り、その結果大学の執行部やその他教官の責任問題が生ずるであろうことは当の大学当局者ならずとも事前に容易に予見できるところであり、また現に当時東大の教官の中にも、そのような場合には、教官は全員辞職すべきであるとか大学をしばらく閉鎖すべきであるとする意見が少なからずあつたことは、本件証拠中の昭和四六年一〇月六日の証人加藤一郎に対する尋問速記録写によつて認められるのであるから、こうなれば大学の自治能力を疑われ、あるいは東大を廃校にすべしとの議論も出て、まさしく大学の危機ともいうべき事態に立ち至るのであるから、加藤総長代行が学生らに対し入試実施の重要性を強調し、これを考慮して紛争の自主的解決を急ぐべきことを求めたのは、もとより当然かつ相当な推置であつたというべきである。そして、この観点からみるとき、同代行が入試問題に関し表わした見解中に、デマゴギーとか誇大な宣伝とかいうべきものはなんら見い出すことはできない。被告人らが、これを、全共闘の孤立を図るためになした策謀だというのは、全く偏見に基づく邪推というほかはない。また、たしかに、昭和四三年一二月二九日以降において入試復活の可能性について、文部省側がこれを甚だ悲観的に見ていたことは証拠上うかがわれるが、それでも一月一五日までの状況を見て再協議をすることになつていたのであるから、一方の東大当局側としては一るの可能性に望みを託してなんとかその復活にこぎつけようとの考えを抱くのは、その立場上当然のことであつて、かかる入試復活への熱意を示した前記一月四日付の文書のような訴えを加藤総長代行が行なうことは、まことに自然であるし、かつその表現においても虚偽と見るべきほどのものはなんら存しないから、被告人や弁護人らの非難は全く当を得ていないものといわざるを得ない。

なお、弁護人らは、加藤総長代行の本件機動隊導入要請理由となつている危険物の除去、不法占拠者の排除等のことは、虚偽の理由であり、機動隊導入要請の公式的な理由は入試復活であるとるる主張するが、右主張は、もし弁護人の主張どおりであれば、入試復活についての文部省との再協議が予定されていた一月一五日以前に警察力導入要請がなければ不自然であるとも思われることや、証人加藤一郎の証言に照らすと、採用し難いものがあり、むしろ当裁判所としては、前認定のとおり、客観的な事実経過とも矛盾しない証人加藤一郎のこの点に関する証言の信憑性は否定することができないものと認めるのである(もとより、加藤総長代行としては、前記理由によつて警察力を導入して占拠者を排除した結果が、入試復活に一つの有利な条件になるであろうと考えたことは、これを推認するに難くないが、このことは入試復活を公式的な理由に警察力を導入したということとは別のことである)。

(ホ) さらに、弁護人らは、加藤総長代行の本件退去通告は、警察力導入要請をし、その準備が完了した後において、はじめてなされたものであり、しかもそれは犯罪が行われている状況を確実にしてそれを検挙したいという警察側の要請によつてなされたものであつて、本件退去通告は警察力導入の口実としての不退去罪を作り出すためのものでしかなく、有効な退去要求とはいえないと主張する。しかし、その有効性についてはすでに判断したとおりであり、これを当否の問題として考えてみても、前認定の占拠の状況からみて加藤総長代行が警察に対し出動要請をした時点における安田講堂の占拠者らは、いずれも建造物侵入罪の相当な嫌疑があるといいうる状況にあつたから、もともと、退去要求をすることなく直ちにこれを警察力で排除することもなしえたものであるが、そのような占拠者であつても退去要求に従つて退去する者までも実力行使によつて検挙するまでの必要はないともいいうるし、占拠者が多数いてその侵入がいつであるか判明しない場合には、むしろ、あらためて退去要求をなしこれに従わないで滞留する者を不退去罪として検挙する方が、多数の者の侵入時期の確定という面倒な手数が省け、各人の被疑事実を画一的になしうる便宜があり、また公判段階における立証も容易であることを考慮すると、警察側があらためて退去要求をなすことを大学側に求め、これに従つて加藤総長代行が退去要求をなしたことは、むしろ相当な措置であつたというべきである。

3退去要求があつたことについての被告人らの認識(弁論要旨第二、一、(三)の主張に対して)

証拠によると、

(イ) 一月一七日午後一一時二〇分頃加藤総長代行が全共闘代表の今井澄に対し電話で本件退去要求をなした際、同時に、右退去要求のあつた事実を占拠中の者全員に伝達するよう依頼していること、

(ロ) 加藤総長代行は、同夜、右正式の退去要求をなす前に、助手共闘の者を通じて非公式に全共闘側に、退去要求をなすことについての事前通告をしていたこと、

(ハ) 当時の状況からみて、大学当局から退去要求のなされたことはいよいよ警察官が出動してくることの予告でもあつたから、安田講堂内の占拠者にとつて、退去要求は最大の関心事であつたこと(したがつて、同講堂内においては各セクトに対し当然右退去要求の伝達措置がとられたと推認できる)

(ニ) 本件退去要求がなされた頃、大学当局は広報車により安田講堂に向け退去要求の放送をなしていること、

(ホ) 一月一七日夜(本件退去要求の後)または同月一八日未明に、同講堂内では、セクトごとの集会の際または個別的に占拠者間で退去要求のあつたことが話し合われたこともかなりあつたこと、

(ヘ) 一月一八日午前七時四〇分頃から、警察官が広報車のスピーカーで講堂内にも十分達する音量で、同講堂に向い、占拠者は直ちに講堂内から退去すべき旨をくり返し放送したこと、

(ト) 同日午前八時過ぎ頃から、東大教官および警察官が、前同様の方法で、同講堂に向い、くり返し、総長代行に代り、同講堂内からの退去を要求する」旨あるいは「大学当局は同講堂内からの退去を要求している」旨の放送をしたこと

が認められ、これらの事実関係に照らすと、遅くとも一月一八日午前八時過ぎ頃までには、被告人らを含む安田講堂内の占拠者は、全員、自分らに対し大学当局から退去要求のあつたことを知つたものと推認することができる。

なお、弁護人らは不退去罪が成立するためには管理権者の退去要求が直接占拠者に到達することを要するものと解すべきであると主張するが、そのように解すべき根拠は乏しい。むしろ、管理者または看守者から占拠者に向けられた退去要求が客観的に存し、かつ占拠者において自らに対し退去要求のなされたことを知つたときは、刑法一三〇条にいわゆる「要求を受け」たことに該当し、退去要求のなされたことを知る方法についてはなんらの制限もないものと解するのが相当である。

二、兇器準備集合罪の成否について

1本件に対する兇器準備集合罪の適用(弁論要旨第二、二、(一)、2および3、(二)(1)の主張に対して)

弁護人らは、刑法二〇八条の二の規定は、処罰の実質的合理的根拠に乏しく、少くとも規制が広きに過ぎ、また構成要件があいまい、不明確であるから、憲法三一条に反して無効であると主張するが、右規定は、兇器準備集合行為により、人心に著しい不安の念を抱かせ、治安上憂慮すべき事態を招来することを規制し、かつこれによりその後に予想される殺傷事犯等を未然に防止する目的のもとに設けられたものであつて、実質的かつ合理的根拠があるし、規制の範囲も必らずしも広すぎるとはいい難く、またその構成要件も合理的な解釈が可能であるから、憲法三一条になんら違反するものではない。

また、弁護人らは、本罪は暴力団、やくざ対策の一環として設けられたものであり、その立法にあたり政治運動や労働運動を阻害、抑圧することのないよう国会の付帯決議があつたものであるから、本件の如き学生運動に適用することはできない旨主張する。しかし、本罪立法の動機がそのとおりであつても、本罪の主体については規定上なんらの限定もないから、何人の行為であるとを問わずそれが本罪の構成要件に該当する以上本罪によつて処罰されるのは当然であり、また本件は正常な学生運動の範囲を著るしく逸脱していることが明らかであるから、本件に対し本罪を適用しても、それが正常な学生運動を弾圧するものとは到底いいえないから、右主張は理由がない。

2石塊等の兇器性(弁論要旨第二、二、(一)、5の主張に対して)

弁護人らは、兇器準備集合罪にいわゆる「兇器」には、いわゆる用法上の兇器は含まれないとして、石塊、コンクリート塊、角材、竹竿、丸太棒、びんなどは兇器にあたらないと主張する。

しかし、兇器準備集合罪が、公共的な社会生活の平穏を侵害するという公共危険罪的性格をも有していることからすると、たとえ用法上の兇器であつても、それを準備することが社会通念上一見して直ちに危険感を抱かせるという状況にあると認められるときは、これを本罪にいう兇器に当るものと解するのが相当である。本件においては警察官に対する攻撃用具として準備された物件はおびただしい数量に上つており、その準備された場所は平素であれば右各物件が置かれるのにふさわしくない大学の講堂内であり、しかもその準備のされ方は講堂内の要所に配置されたものであり、これらのことや当時の一般的な状況からすると、安田講堂内に準備された本件石塊、コンクリート塊、角材、竹竿、丸太棒、びん等は通常人が一見しても、火炎瓶等の他の兇器とともに警察官に対する加害のために準備されているものと判り、人に甚しい危険感を与える状況下で準備されていたものということができ、かつ右各物件はいずれも人に少くとも傷害を与えることのできる性質のものであるから、兇器準備集合罪にいわゆる兇器であると認めるのが相当である。

3  共同加害目的の存在(弁論要旨第二、二、(二)、2〜6の主張に対して)

証拠によると次の各事実が認められる。

(イ) 加藤総長代行が警察の出動要請をしたのは一月一六日であること、

(ロ) 同日夜には東大全共闘の幹部は安田講堂三階の部屋に各セクト等の代表を集め、警察官による排除活動に対する各セクト等の守備分担を決めたこと

(ハ) 一月一六、一七日にも同講堂内ではバリケードの補強や投石用の石づくりが行われていること、

(ニ) 東大全共闘は、警察官の同講堂内への進入を阻止するため実力を用いて徹底的に闘う方針を決めていたこと、

(ホ) 右の方針は、同講堂内の状況、とくに投石用の石塊等が各階の窓際等に配置されていること等により、同講堂内に入つた者は直ちに知り得ること、

(ヘ) 一月一六、一七日頃に同講堂内に入つていた者の中で、警察官らに対し実力で抵抗することについて異議を唱えたりした者のあつたことは、本件証拠上全く窺えないこと、

(ト) 本件後の検証の際、同講堂内のいたるところで多量の本件兇器物件が発見されていること、

(チ) 一月一八、一九日に行われた占拠者らの公務執行妨害行為は、講堂内の特定の場所においてだけなされたというものではないこと、

(リ) 対催涙ガス用と思われるほう酸が同講堂内に用意されていたこと、

(ヌ) 一月一七日の夕方以降に同講堂内へ入つたものはほとんどないこと、

(ル) 一月一七日夜、機動隊がいよいよ導入されることになつたことを知り、講堂内から出たものもあること。

以上の各事実を総合して考えると、同講堂内において本件により逮捕された者は、全員いずれも、いよいよ同講堂の封鎖解除のため警察力が導入されることの切迫していることを知りながら、警察官に実力で反撃する方針をとつていた東大全共闘の方針に賛成して同講堂内にたてこもり、全員互いに分担協力して警察官に対し危害を加えようとの意欲をもつていたものと認めるのが相当である。すなわち、一月一八、一九日における安田講堂内の占拠者全員は判示のとおりの共同加害目的を有していたものと認められる。

三、公務執行妨害罪の成否について

1公務執行の適法性

(一) 警察官出動自体の適法性(弁論要旨第二、三、(二)の主張に対して)

弁護人らは、「被告人らによる安田講堂占拠は正当で、不退去罪は成立していないから、同罪成立を唯一の根拠とする警察官の東大構内への出動は、それ自体法的根拠を欠き違法である。また、たんに安田講堂等を占拠していただけの被告人らに対する本件警察官の出動は、その人数、装備等において、著るしく必要の限度を超えたものであり、大学当局と国家権力が一体となつてしかけてきた東大闘争圧殺策動であつて、違法である」旨主張する。

しかし、本件につき不退去罪の成立することは、前に説明したとおりであるから、同罪の不成立を前提とする主張は理由がないこと明らかであるし、また、被告人らを含む全共闘派の学生らの占拠は単なる占拠ではなく、警察官らに対する徹底的な反撃を意図しそのための多数の兇器等を準備をし、かつ強固なバリケードを構築した占拠であること、占拠者の人数、占拠していた建物は著しく堅固で攻めるに難い安田講堂のみでなく他にも堅固な建物が多数あつたこと、当日学外からの闘争支援者の多数来ることも予想されたこと、東大周辺の学外においても不法事象の発生が予想されたこと(現にその事態は発生した)等を考慮すると、前認定の人員、規模、装備による本件警察官の出動が、不当に過剰なものであつたとは到底認められない。そして、本件安田講堂占拠の経過、態様、当時の状勢等からみると、すでに説明したとおり、右占拠者を排除検挙するために警察官が出動することは、なんら違法・不当なものでないから、右警察官の出動を東大闘争の圧殺策動であるとする非難は、被告人らの非を棚にあげてする身勝手なもので、全く理由がない。

(二) 執行方法の適法性

(1) 催涙ガスの使用の適法性(弁論要旨第二、三、(三)、3の主張に対して)

弁護人らは、「催涙ガスは、一過性の催涙効果があるだけでなく、それ以上に人体に対し長期にわたる重大な損傷を与える毒ガスであつて使用を禁止されるべきものであり、また警察官職務執行法七条にいう「武器」に該当する。本件職務執行において、警察側が催涙弾、催涙液を多量に使用したことは、毒ガス使用を禁止した一九二五年のジュネーブ議定書等に反する国際法違反であり、また警察官職務執行法七条に違反し、本件職務執行は違法である」旨主張する。

証拠によると、本件当日である一月一八、一九の両日警察当局は東大構内および構外の神田、本郷方面への出動にあたり催涙弾約一万発を用意し、そのうち一八日に約七、〇〇〇発を(東大構外での使用分を含む)、一九日に約二、〇〇〇発を使用したこと、催涙ガスという場合、その形態は、催涙弾と催涙液の二種類あるが、本件両日東大構内においては、催涙弾としてガス銃を用いて発射する方法、催涙液として、放水車より放水し、またヘリコプターにぶらさげたドラム缶から浴びせる方法等がとられたこと、催涙弾には、いわゆるP型(粉末として爆発により飛散せしむるもの)とS型(発射後弾筒にあけられた穴からスモークがふき出し、これとともに催涙ガスが拡散する仕かけのもの)等があるが、安田講堂に対して使用されたのは主としてP型であり、その粉末の成分は、オメガ・クロルアセトフエノン(以下「CN」という)七〇%、雲母粉三〇%で、本件で使用されたP型弾は一発中に一〇〇グラムの粉末が入つているものであること、催涙液は、有機溶剤四塩化エチレン九五、CN五の割合で溶かし、これを、表面活性剤のリパールをつかつてさらに水で六〇倍に薄めたもの(したがつて、CN濃度は0.08%)であることが、それぞれ認められ、本件両日安田講堂に対し使用された催涙ガスの全量は正確には必らずしも明らかとはいえないが、多量の催涙ガスが催涙弾および催涙液という形態で用いられ、これが占拠者らに対する排除活動全体の中でかなり大きな役割を果したことは疑いがない。

そこで、催涙弾、催涙液の中に含まれているCNの人体に対する影響について検討すると、証拠によると次のことが認められる。

まず、CNは、(イ)眼の角膜等の粘膜を刺戟・傷害する性質(その結果の一つとして催涙効果がある)、(ロ)肺や気管支等の呼吸器官の粘膜を刺戟・傷害する性質、(ハ)皮膚に炎症を惹き起す性質(これには、一次的な炎症といわゆる抗原・抗体反応としての自動再燃による二次的症状がある)を有していることは明らかである。さらに、(ニ)そら豆の根端の細胞を0.0155%ないし0.000155%のCN溶液に侵してなした実験観察では、CNが細胞分裂に異常を起す性質のあることが判明しており、これによつて催奇形性をいう研究者があり、また、(ホ)白ネズミによる実験の結果、ガス状で吸つたCNが血液中に入つていくこと、白ネズミの血液中に静脈注射によりCNを注入すると、その一部が体内各部に行きわたり、それが完全には体外へ排出されることなく、肺臓(一二三時間後で0.14%)、脾臓、腸、肝臓に残留することが判明し(体内残留性)、このことから人間の場合にもCNががん等の発生をもたらす危険があるという研究者があり、また、(ヘ)ネズミによる実験の結果、ネズミの母体内に入つたCNは、その約0.1%が胎盤を通してネズミの胎児の中に移つていくという研究者がある。ただし、右(ニ)、(ホ)、(ヘ)の点については従来殆んど研究されていなかつた分野であるから、将来追試者によつてその確実性が確かめられなければならず、また人体に対する影響もなんらかの方法によつてさらに正確に確定される必要がある問題ではあるが、現在の知見をもとにして判断すれば、少くとも密閉された狭い穴の中にいる人に対し、逃げ口をふさいで、その中に極めて多量の催涙弾を長時間打ちこむ場合等を除いて、本件の場合も含め普通一般の催涙ガスの使用方法のもとでは、その指摘するような危険が憂慮されるような状態には、まずなりえないと考えられる。もとより、これらの点に関しても、さらに研究が進められ仮に論者の指摘するような危険があるとすれば、その使用を認めるとしても、やむを得ない極限情況に限るとか、または使用後の治療処置に完全を期するなどの方法がとられることが必要であつて、軽々にその危険性を断定的に否定することはさけるべきであるが、やはり、CNの毒性として当面問題にすべきは、前記(イ)、(ロ)、(ハ)の性質であろう。たしかに、CNにはこれら(イ)(ロ)(ハ)の各作用があるため、催涙ガスの使用は、その使用方法によつては、人に対し、角膜混濁、視力低下、失明、肺水腫、気管支炎、皮膚炎等をもたらす危険があり、極度の使用形態によつては死の結果をも惹起する危険もあると一応いつてよいであろう。

したがつて、催涙ガスの使用については使用時の環境情況の考慮、使用分量の加減等十分慎重でなければならないし、また使用後においては救急処置、その後の治療、手当等に遺憾のないようにしなければならない(この点法務省矯正局長通牒「ガス銃の使用について」五を参照)が、それらの点に注意さえすれば皮膚炎を別とすれば、本件で用いられたような大きさとさく裂力の催涙弾やCN濃度0.08%程度の催涙液であれば、これらが戸外で用いられ、あるいは本件安田講堂のように局部的には逃げ場もある広い建物内に向つて使用され、救急処置や事後の手当も遅滞なく施しうる場合には、CNの不耐濃度が一立方米空気中一分間五〜一五ミリグラムであること、その致死量(一分間吸入濃度)が一立方米空気中八、五〇〇〜二五、〇〇〇ミリグラムであることおよび本件で取り調べた厚生省の実験結果(この実験にはその方法に若干欠点があることは審理の結果明らかであるから全面的に信用するわけではない)等に照らすと、特定の空気の入れ替りのないところへ極端に集中的に、濃密に、使用するのでない限り、まず死亡とか著るしい視力低下を伴う角膜混濁、重篤な肺水腫・気管支炎等の人体に対する重大な結果が生じる可能性は極めて低いと認められる。(たとえば、その概略的経過が一般に公知である浅間山荘事件で牟田泰子さんが催涙ガスの使用が激しかつたにも拘らず致死または重篤な被害を受けなかつたことを参照。)現に、いわゆる一月一八、一九日の東大事件において検挙された五〇〇名をこえる者の中で、本件証拠調によりCNの影響であると認められる最も重い症状の者は、大腿部等に第二度火傷様の接触性皮膚炎症を呈した者であつて、それ以上の重篤な症状を来たした者はないのである。そして、皮膚炎症についていうと、その発生については個人差があり、また催涙液あるいはCNの粉末を浴びた場合、直ちに洗い落し、かつCNのついた着衣を脱げば、皮膚炎を招くこともほとんどないと思われるが、しばらくそのままにしておくと、皮膚に発赤、水疱、丘疹、え死等の症状を来たし、CNのついた濡れた着衣を長く着ていたりすると、これが皮膚までしみ通り、乾くにつれてCNの濃度が高くなり、そのため、相当大きい個人差もあるが、重い皮膚炎症を来たし、ひどいのは火傷様の皮膚びらんとなると認められる。(前認定の最も重い皮膚炎症を呈したものは、ぬれたズボンを長時間はいていたためと推定される。)

なお、催涙液の成分の一つである前記四塩化エチレンについても、(イ)これを一時に1.1CC吸入するとせん妄状態を起こし、(ロ)長時間にわたつて吸入していると慢性の障害として精通異常や肝臓障害等をきたすこと、また(ハ)四塩化エチレンが皮膚につくと発赤等の皮膚炎を起こし、目に入ると激しい痛みを感じさせるなどのことがあるといわれているが、催涙液として用いる場合は、六〇倍の水に薄めてあるし、また四塩化エチレンはほとんどありえないし、犯罪鎮圧に用いる場合には(ロ)の心配も無用であるし、(ハ)の点も六〇倍に薄めてあることを考慮すると実際上重篤な症状が生ずることはほとんどないと認められる。

以上に見たところによると、催涙ガスが警察活動に使用される場合は、通風不良の狭い囲まれた場所で多量に用いる場合を除き、通常の状態では致死ないしこれに準ずべきほどの重篤な身体障害をもたらす可能性は非常に低いということができ、そして他方ではその催涙効果により集団的な犯罪を鎮圧し制止するうえで有効性を有しているのであるから、相当重大な犯罪行為が行なわれている場合には、本件で用いられたような催涙ガスの使用を一概に残虐で非人道的なものとして犯罪の鎮圧制止の手段としてのその使用をも一切禁止しなければならないとの主張は、到底採用し難いものといわなければならない。(このことは、欧米諸外国において今日でもなお国内の警察活動用としては依然として催涙ガスが用いられていることによつても理解できるであろう。)

なお、催涙ガスがジュネーヴ議定書によつてその使用を禁止されている化学兵器に含まれるかどうかについては議論の存するところであるが、仮りにそれを肯定するとしても、ある物質が兵器として用いられる場合は、戦争自体のもつ非情な性格に鑑み、広範囲にかつ無差別的に、また限度なく使用される危険があり、そのため救護措置も完全は期し難いから、使用対象はもちろん戦闘に加わつていない一般市民らにも広汎に且つ無差別的にその惨禍を及ぼすおそれがあるのに対し、国内で特定の重大犯罪の鎮圧制止という限定された目的のための一手段として用いられる場合は、その目的上使用される場所、対象が限定され、かつ比例の原則による規制が働らく結果一定の限度が保たれ、しかも使用後においても救護措置の万全が期せられるため、使用の対象はもちろん一般市民に悪い影響を及ぼすおそれが少ないと考えられるから、兵器としての国際法上の使用禁止の趣旨から直ちに国内における犯罪の鎮圧制止の手段としての使用禁止をも導き出すことは、必らずしも適切とはいえない。

ところで、証拠によれば、本件において警察官が催涙弾、催涙液を使用したのは、講堂内にたてこもつた学生らから公務の執行をなしている警察官らに対し、頭上から火炎瓶や大きな石塊等生命・身体にとつて著るしく危険な物件を多数投げつける等の極めて兇悪な行為がくり返されている事態の下で、公務の執行に従事する警察官の生命・身体の安全を図り、かつ学生らの現に犯している公務執行妨害罪(これは警察官職務執行法七条一号所定の罪にあたる)の行為を抑止し、右学生らを逮捕するために、やむをえずなしたものであり、またその使用については予め右学生らに警告を発し、右学生らの過激な抵抗が終つた段階では直ちに使用を中止したものであることが認められる。そうすると、仮りに催涙ガスの使用が同法七条にいう武器の使用にあたるとしても、本件における催涙ガスの使用は、犯人の逮捕、自己もしくは他人に対する防護および公務執行に対する抵抗の抑止のため必要と認められる相当な理由のある場合において、事態に応じ合理的に必要とされる限度においてなされたものというべきであり、また長期三年以上の懲役・禁錮にあたる兇悪な罪を現に犯している者が警察官の職務執行に対して抵抗するときにおいて、その抵抗を防ぎ、逮捕するために他に手段がないと信ずるに足りる相当な理由のある場合であつたともいいうるのであるから、同法七条本文、但書の場合に該当するのである。

したがつて、本件における催涙ガスの使用はなんら違法ではないというべきである。

(2) 「ガス銃による直撃」、「機動隊員の暴行」について(弁論要旨第二、三、(三)2、(2)、(a)、(ロ)および(b)の主張に対して)

弁護人らは、「本件両日、警察官らはガス銃により意図的に学生らの身体めがけて催涙弾を直撃し、右直撃により四一名の学生らが受傷し、うち一一名は頭蓋骨骨折、迷路振溢症などの極度の重傷者であつた。また、警察の機動隊員らは被告人らを逮捕する際および逮捕した後に、欧る、殴る、突く、階段から突き落す等様々の暴行をした。これらは、警察が組織的、計画的になしたものであるから、本件警察官の職務行為は全体として具体的な職務権限を逸脱した違法なものといわざるをえない」旨主張する。

本件で取り調べた証人や被告人らのうちには、警察官らがガス銃で学生らの身体を狙つて撃つたのを目撃した旨供述している者があるが、右各供述の具体的内容を検討すると、狙つて撃つたというのは推測に過ぎないし、その推測に合理的、具体的理由があるとは認め難い。なるほど、本件両日催涙弾が直接身体に当つて負傷した者のあることは、証拠により認められるが、本件証拠上、これが警察官により意図的になされたとのことは到底認め難いといわなければならない。また、逮捕時、逮捕後における警察官らによる暴行については、本件被告人らの多くが暴行を受けた事実を供述し、これに反しその関係で調べた逮捕警察官らはいずれも、その事実を否定しあるいは相手方に抵抗の事実があつたので制圧のためやむなく実力を用いた旨供述している。右被告人らの供述のうちには一部明らかに誇張した表現も見られ、必らずしも被告人らのいうとおりとも思われないが、多数の警察官が関与し、しかも学生らから激しい暴行を長時間にわたりくり返し受けた後に逮捕したのであるから、若い警察官などが強い興奮や学生らに対する憤激の気持を抱いたことは想像に難くないのであつてこのことや被告人らの訴えを併せ考えると、逮捕時または逮捕後の連行の過程で、これにあたつた警察官の中には、若干逮捕された者らに対し不必要に粗暴の振舞をした者が一部あつたことは、これを認めることができる。

ところで、本件公務執行妨害罪の訴因における妨害行為の対象たる公務の執行は、退去要求に従わないで安田講堂内に滞留している者らに対する警官らの排除検挙活動の全体であり、個々の警察官の職務行為を個別的にとらえたものではないと解されるところ、逮捕時または逮捕後に警察官の具体的な暴行行為のあつた事実は、すでにそれ以前からなされている占拠者に対する排除、検挙行為、すなわち全体としての公務の執行の適法性に影響を及ぼすものではないと考えられるし、また前記催涙弾直撃の問題も、(これが意図的になされたと認め難いことは前記のとおりであるが、仮りにそうでないとしても、)これがガス銃を使用した警察官らにより全体的、一般的になされたものでないことは本件証拠上明白であるから、全体としての本件公務執行の適法性を左右するものではないと考えられるのである。

その他、本件全証拠をくわしく検討しても、本件排除・検挙の公務の執行を全体として違法と評価しなければならないほどの違法・不当な警察官の行為はなんら見出すことができないから、本件公務は適法性を有し、公務執行妨害罪により保護されるに値するものというべきである。

2共謀共同正犯の成立(弁論要旨第二、三、(四)の主張に対して)

弁護人らは、いわゆる共謀共同正犯理論の不当性を指摘し、これは実定法上根拠を有しない解釈法理で、これにより処罰することは憲法三一条に反する旨主張し、さらに本件においては、公務執行妨害罪について共謀が存したことは認められないと主張する。

しかし、いわゆる共謀共同正犯も刑法六〇条の規定する共同正犯にあたり、これにより実行行為に直接出なかつた者を処罰してもなんら憲法三一条に違反するものでないとすることは、判例上確定しているところであり、当裁判所も同じ見解である。そして、前に共同加害目的認定の項で掲記した各事実関係および公務執行妨害で起訴されている被告人らはいずれも本件当日予めセクトごとの代表者らにより協議決定された分担に従いその守備部署についていたこと等に徴すると、右被告人らはいずれも、おそくとも一月一八日警察官による排除行為が開始されるときまでにおいて、安田講堂内の他の多数の占拠者らとの間に、東大闘争を貫徹するため、一体となつて、同講堂の占拠者を排除しに来る警察官らに対し暴行を加えてその職務の執行を妨害すべきことを、各セクトの代表者会議、各セクトごとの集会、個人どうしの会話、各人の行動等を通じて互いに確認し合い、よつて公務執行妨害を共同して敢行することの合意(共謀)を遂げたことおよびこうして形成された公務執行妨害罪の共同遂行の合意に基づいて、本件両日判示認定の各妨害行為が同講堂占拠者中の相当数の者により実行されたことをそれぞれ認めるのが相当であるから、右被告人らのうち、自から妨害の具体的実行行為に出たとの証明がある者はもちろん、その証明がない者についても、共同正犯としての公務執行妨害罪の成立を認めることができる。

3被告人Mおよび同Nの公務執行妨害罪の成立(弁論要旨第二、三、(五)の主張に対して)

弁護人らは、とくに右被告人両名について、公務執行妨害の実行行為をしたことおよびその共謀に加わつたことの証明がないとして、公務執行妨害罪について両名は無罪であると主張する。

なるほど、被告人M自身が警察官らに対し直接暴行を加えたことをうかがわせる証拠は全く存しないし、また被告人Nについても同被告人自身が警察官に暴行したとかあるいは逮捕される際に抵抗したとのことは、本件証拠を検討した結果、結局これを認めるに足りないといわざるを得ない。

しかし、前項で説明したところに加え、右被告人両名は本件両日いわゆるフロント派に属しまたはこれに同調する者らと安田講堂二階南西部において行動をほぼ共にしていたと認められるところ、そのフロントの者らの中にも本件当日において守備部署付近で角材を手にして動いたり、二階に攻め上つて来る警察官に投石している学生のところへ数名で石を運んだりしていた者のあつたこと(被告人I同K、同Pの検察官に対する各供述調書)、とくに被告人Mは当時東大にいたフロント派の中でリーダー的役割を果しており、たとえば一月一五日の労学総決起集会の際には「もし機動隊が学内に入つて来ることがあれば、われわれはあくまで国家権力の介入を防ぐためわれわれの手で安田講堂を守りぬこう」などとアジ演説していたこと(被告人Pの検察官に対する一月二九日付供述調書)などを併せ考えると、フロント派の者らがいよいよ逮捕される際には無抵抗でおとなしくしていようとの方針を予め決めていたことを考慮に入れても、被告人Mおよび同Nの両名についても、公務執行妨害罪の共謀をした者として、共同正犯としての公務執行妨害罪が成立するものと認めるのが相当である。

四、各罪の違法性(弁論要旨第二、四の主張に対して)

弁護人らは、「東大闘争は正当な目的を有したものであり、被告人らが本件行為により守ろうとした東大闘争と警察官らが行なつた安田講堂からの占拠者の排除による利益を比較すると前者が優越し、また東大闘争圧殺のためなされたぼう大な物量による警察官の攻撃に対しては、本件各行為は手段として相当なものであり、かつその時点では被告人らが東大闘争を守るためにとりうる他の手段方法はなかつたから、本件各行為は超法規的に違法性が阻却される」と主張する。

しかし、すでに説明したところからも明らかなように、本件当時における東大闘争は、もはや、大学側の非を是正するための手段あるいは一定の可能な要求を実現するための手段としてあつたものではなく、むしろ、自らの手による大学の支配、あるいは現行法秩序の上に成り立つ体制の破壊、あるいは造反有理等の思想を行動で示すことそれ自体を自己目的化した闘いであつたことは、被告人らの供述により認められるところであるから、現行法のもとにおいては、被告人らの本件行動が正当な目的を有した行動であるとは到底認め難い。また、その手段が相当性を欠くことは、前認定の本件各行為の態様に照らし余りにも明白であるから、その余の点について触れるまでもなく、本件各行為が違法と評価されるべきことは疑いの余地がない。弁護人の超法規的違法性阻却の主張は甚しく失当である。

(確定裁判)

被告人Cは、昭和四四年一一月一四日東京地方裁判所において昭和二五年東京都条例第四四号集会集団行進及び集団示威運動に関する条例違反の罪により懲役四月執行猶予二年間の判決言渡をうけ右裁判は同年同月二九日確定したもので、このことは当裁判所に顕著である。

(法令の適用)〈略〉

(量刑の事由)

本件は、あらためていうまでもなく、学園闘争の頂点たる安田砦攻防戦として天下の耳目を一点に集めた事犯である。東京帝国主義大学の解体をめざす東大闘争の勝利、全国学園闘争勝利、国家権力機動隊粉砕を叫んで一・一八、一九の両日にわたり組織的、計画的におこなわれた本件集団犯行は、その規模の大きさ、兇暴危険な手段、態様からして、犯情まことに悪質で、とくに多くの警察官に対する長時間、広範囲の激烈な攻撃、執ような抵抗、準備され、使用されたぼう大な量の兇器に着目するとき、これがいかような思想信条に基づく行動であつたか、あるいは政治闘争なるや、個別大学改革運動なりやをせんさくするまでもなく、また大学当局の学生、院生、研修生らに対する対応の適否の如何にかかわらず、学園内粉争解決の手段としてはもとより、その他いかなる意味においても、法と秩序を重んずるわが民主主義社会体制にとつてとうてい容認しえない所為というべきである。

思うに、三百数十名にも及ぶ全共闘およびその支援派の多数の学生らが、すでに半年以上にわたり全共闘により不法に占拠されてきた安田講堂内の入口、階段、窓などにロッカー、机、板などを用いて構築された堅固なバリケードをさらに補強したうえ、多量の角材(ゲバ棒)、石塊、コンクリート塊、鉄パイプ、火炎びん、塩酸、硫酸などの薬物を講堂内に搬入し、これを要所に配置して、さながら砦となつた同講堂に立てこもり、中核派、反帝学評、フロント、ブント、MLなどの各セクト毎に軍団を編成し、機動隊に対する守備部署、攻撃防禦の分担をきめ、大学当局・警察双方からのくりかえしなされた退去要求や説得に応じないで、与えられた任務遂行のため講堂にとりつこうとする機動隊員、あるいは警備車めがけて四階、五階の屋上バルコニー、時計台上よりおびただしい数のコンクリート塊、火炎びん、石塊などを投げつけ、また漸く内部に突込んで階段などのバリケード撤去にかかる機動隊員に対し、鉄パイプで突きかかる、薬物をまく、石を投下するなどして、多数の警察官に危害を加えたのが、本件犯行そのものの兇悪な実体である。

しかもその加害の態様たるや、自らは高いところに位置して身を隠しながら、危険を冒して任務を遂行しようとする眼下の警察官らに対して、その生命身体に対し重大な危害を及ぼすことを何ら意に介せずなされたものであつて、当時、構内デモ、集会、アジ演説、民青との対峙、乱れ飛ぶ各種の情報等の影響のもとに、全体として異様な興奮につつまれた状況の中で決意され、犯されたものであること、一定の政治思想をもちその思想を貫徹しようとすればするほどいきおい行動が極端化する面のあることを考慮しても、到底許し難く、その罪責は重大なることを強く指摘しなければならない。

そして、その結果、警察官に多数の負傷者を出したほか、同講堂はもちろんのこと、本件闘争を通じて学内のほかの多くの教育、研究、諸施設の破壊をもたらし、かつ貴重な研究資料をも毀損し、多大の物的損害をもたらすことによつて大学の主要な機能たる教育、研究活動に支障を与えたのみならず、入試復活を著しく困難ならしめ結局は中止のやむなきに至らしめたことにより世の多くの東大受験生の受験の機会を奪い、受験生及び親など関係者の期待をふみにじつたことなどは、いずれも看過できない事情といわなければならない。

ところで、本件紛争の過程をくわしく検討すると、その発端においては、学生らの運動は、医学部内におけるインターン制度、それを支えるものとしての医局制、講座制等に関する諸矛盾の是正改革をめざしたいわゆる学園内個別改良運動の性格にとどまつていたかに見えるが、その後の総長、医学部長、病院長、学部教授会などの学生に対する対応、とくに六・一七の機動隊キャンパス内導入などを契機として、全共闘は、大学の体質、管理機構、その背後にある国家権力そのものとの対決、あるいはその改革方法をめぐる民青との抗争をもくろみ、そのころから次第に政治闘争としての実質をあらわにし、支配階級たる官僚・独占資本家の養成所、帝国主義秩序およびそのイデオロギーの中心としての東大の解体、破壊を企図したミニチュアの革命運動と変質するに至つたものと思われる。したがつて本件紛争は、全学連各セクトの理論や路線・戦術によつて若干異なるとはいえ、全国学園紛争、七〇年代安保闘争、反体制運動の一環として、被告人ら学生によつて把握され、東大を体制そのもの、したがつて安田講堂をその象徴とみて、これを封鎖し占拠することは右の政治闘争を貫徹するのに不可欠との認識のもとにこれに立てこもり、排除にかかる機動隊を国家権力による闘争の圧殺者として攻撃、抵抗したばかりか、これによつて社会を騒乱状態におき現在の文部行政、とくに大学政策に一大打撃を与え暴力革命による権力奪取のさきがけとしようとしたことは明らかである。

そして東大生の被告人L、I、M、UKを除く他の被告人らは、東大内の紛争とは直接関わりがないのに、本闘争は学生にとつて普遍的なもので連帯すべきであるとして、それぞれ所属または同調する各セクトの理論の影響のもとに、全共闘と相容れない民青を粉砕し、闘争の圧殺者とみる国家権力と戦うために、全共闘を支援すべく、その呼びかけに応じ、あるいは自ら進んで、参加するに至つたものと認められる。しかし、これら学外者が紛争に首を突込むことによつて、紛争がさらに紛糾拡大し、あるいは可能であつたかもしれぬ東大の教官と学生とによる自主的解決を至難としたことは否めないばかりでなく、右の被告人らのうちの多くは殊更東大紛争を契機とし、大学当局の対応の態度、学内の紛争解決のあり方とは直接かかわりなく、専ら革命をめざす自己の思想、政治目的を貫徹するかつこうの場として東大に乗り込んできたものとみられるからその刑責は東大生たる被告人ら以上に重いとみなければならない。

もつとも東大生たる被告人らも、学内の紛争に際し、人間として、学内として望ましい理性的な思考、態度をとらず、紛争の現実的、合理的な解決の道を、広い観点から、慎重に、かつ時間をかけ、手順を尽して、賢明に選択しようとせずに、自らの思想と価値観(その内容の当否はともかく)を唯一絶対の正義だとして短兵急に暴力をもつてこれを他に押しつけようとしたもので、他の思想と価値観の対等性を承認することなしに、しかも本件の如き暴力的行動がいきつくところの危険性に対する念慮をかいたままでなされた本件は、民主々義社会の基本的ルールをふみつぶしたものとして厳しく非難されるべきものである。申すまでもなく、凡そ社会には人の数ほどの多様な考え方があり、被告人らのいうが如き主張、なす行動に対し賛成するものもあれば、これを迷惑とし、もしくは反対する者も数多く存在するのであつて、これらの平凡なしかしごく単純明快な真理に気がつかずに、自らが主観的に正しいと信じたことは唯一絶対でありそれを貫徹するにはどのような手段をとつても正当化されるとか、唯物史観に従つて頭の中で考えたことがいともたやすく明日にでも実現するものであるとか考えているとすればそれは世間知らず、思い上り、甘つたれに過ぎないものとして、強く反省を求めなければならない。

なお過激な学生運動の天王山となつた本件は、爾後学園内外においての学生による政治闘争に際し安易に暴力を用いる傾向を助長し、全国各大学に暴力事犯を続出させたものでその社会的影響もきわめて大きいことが想起されねばならない。

ただし、東大紛争が大学の管理運営、学生と教師との関係、学生の学内における地位、教育、研究の目ざすもの、そのあり方などの諸点についてその根本から再考すべき契機となつたこと、いわゆる教育の原点に立ちかえつて思索すべきひきがねの役割をはたしたことは否定できぬところであり、また大学問題の本質、大学にひそむ根深い矛盾点などを明らかにしたメリットを当裁判所としても見失うものではないけれども、判示の如き本件犯行は、いかなる論理をふりまわそうとも、そのことの故に正当化され是認されるべきものであつたとすることはできない。しかも被告人らの中には極く少数ながら相当理論的な確信を持つていた者があるものの、大多数は、真摯な深い思索に裏打ちされた動機や理由なしに、きわめて情緒的短絡的な反応から、本件に加担したかの如くであつて、そういう人々が、集団の中に交つて、判示のような危険な行為になんのためらいもなく出られる無責任さには強い非難が加えられなければならない。もつとも、被告人らの独自の論理として、自らが打倒すべきものと考える制度、体制はまず破壊することが先決問題であつて、実現すべき制度、社会は破壊の後に、自から生れるべきものとする一種の「破壊の論理」があるものの如くであるが、破壊の過程に於て生ずべき諸般の弊害、惨禍を考えるならば、少くとも破壊に伴う利害得失のバランスシートは仔細に比較衡量をされなければならない筈であり、それなくしてなされる破壊行動は、それが重大なものであればある程無責任のそしりを免れないものというべく、現在のような民主主義的な社会に於ては、右のような破壊の論理は到底通用しないものというべきである。

以上の諸点をふまえたうえで、各被告人の情状について個別的に検討を加える。

被告人A、D、C、Eら明治大学グループは、ブントの関東部隊に所属し、一八・一九の両日主に四階北側屋上、五階北側屋上において攻撃を担当したものであり、ブント部隊は、本件公務執行妨害についてもつとも主要で熾烈な攻撃をおこなつたセクトである。とりわけ被告人Cはブントの行動隊長として、同Dは副行動隊長としてブントの最高指揮を司つたものであり、主たる行動をみてもCは、一五日東大構内における集会では軍団編成をしたり、守備分担を決めたりし、一六日には予備演習を指示したり、火炎びんの投擲方法を注意し、一七日の集会において演説し、一八日には火炎びんの投下についての指示、学生らに対する督戦、一九日四階屋上にあつて指揮などをしたリーダー、また被告人Dは概ね被告人Cと共に在り、一五日、一七日には被告人Cなどとともに「玉砕するまで頑張る」とのアジ演説をし、一八日には投石用の石造りの指示、火炎びんの投下方法についての指示をやり、一九日には四階屋上に在つて自ら投石したり、消火器を投下したりしたもので、しかも安田城陥落の際は、時計台屋上で殆ど最後まで抵抗し、社学同の大きな赤旗を最後まで振つていたいわば象徴的な存在である。本件の集団犯罪としての特質態様に鑑み、指揮者としての右両名の責任はとくに重いといわねばならない。なお、被告人Cについては、昭和四三年三月兇器準備集合、同年四月都条例違反、同四五年六月兇器準備集合、暴力行為処罰に関する法律違反の犯歴があり、昭和四四年一一月東京地裁で前記の条例違反により懲役四月執行猶予二年の判決をうけており、被告人Dについても不法監禁など三回の犯歴を有するほか、昭和四五年七月兇器準備結集等により起訴、同年六月強盗致傷、監禁、国外移送略取等各幇助(いわゆるハイジャック事件)により起訴され、現に公判係属中なることが当裁判所に顕著である。両名ともに人柄は良く、指導者としての能力もあり、ブントが防禦組になつたことについても同人らの尽力によつた点も認められるけれども、叙上の事情から厳しい評価で臨むほかはない。

次に被告人Eはブントの活動家で、本件は教育の帝国主義的改編をめぐる闘いで、学内の改良要求をめぐる闘いではないから他大学の学生を含めて問われている闘争であるので参加した。学園闘争を通じて七〇年代安保に備えての政治闘争を斗える部隊を作りあげるのが目的であるとその動機について述べ、被告人Aも安田講堂に立てこもつて全共闘を支援したのは、大学、文教政策、ひいては国家機構変革の手段としてであると述べる。両名ともに公務執行妨害の犯歴を有するうえに両名は本件両日C、Dら明大グループと行動を共にし、とくに一九日には写真撮影報告書によつて明らかなとおり午後には四階屋上にいてDをはじめとするブント部隊とともに激しく投石(被告人Eは一〇回位投石したと自認)しており、加担の度合、攻撃行為の積極性からしてともに重い責任を負担すべきものである。

被告人F、同Hは、ブントの関西部隊に所属して、主に四階の屋上、会議室とその廊下、窓などの防備を担当した。前記の如く被告人Fは組織の幹部の地位にあつたうえ、昭和四三年三月暴力行為処罰に関する法律違反、同年一〇月京都市条例違反、道路交通法違反の前歴があり、当裁判所に顕著な事実として、同人は昭和四六年一一月一六日浦和地方裁判所において窃盗、強盗、同予備により懲役八年に処せられ現に控訴中であることが明らかであり、被告人Hは、昭和四三年都条例等違反、同四五年公務執行妨害で検挙された犯歴を有するうえ共犯者の供述調書などによると関西ブントの第三小隊長として四階第一会議室、廊下付近の守備の指揮をとつたものであり、また彼らの言動によるも、自分は共産主義者同盟の活動家として本件闘争に参加し、政治路線の一環として階級闘争を闘つた、今後の闘争は赤軍によるゲリラ戦が正しい(F)、東京帝国主義大学解体のための闘争に参加した、赤軍のハイジャック事件に拍手する(H)などと陳述して、公判廷でもなんら反省の情を示さない。いずれも実刑に処すべき事情が十分である。

次に茨城大学学生四名位と行動を共にし、関東ブント部隊に入り、六階ベランダ、五階屋上の防備につき、一八日には投石を数回おこなつた被告人Vは、捜査官に対しては、民青により講堂の封鎖解除をされるのは困るので全共闘を支援した、しかし運動とは縁を切る旨供述していたが、公判廷では現在赤軍に入つたことを公言し、昭和四六年六月二九日赤軍派の資金調達のために郵便局を襲つて現金を強取したとのことで懲役三年六月に処せられている事情を考慮するときは、同被告人に対し実刑を科することはやむをえないものとしなければならない。

その余の被告人らについては、いずれも本件公判廷で本件に対する反省の態度を示さないのは遺憾であるが、

(1)  被告人B、同Sを除き、いずれも本件においてとくに積極的行為をしたと評しうる程の事実関係は認め難いこと、

(2)  いずれも、本件全体の犯行において主導的立場にあつたとは認められないこと、

(3)  被告人L、同N、同I、同G、および同Sには本件前に犯歴がなく、その余の者らについてもいずれも起訴猶予ないし不起訴処分で終つている犯歴のみで、格別重視すべき前歴を有している者はないこと、

(4)  本件後の多数の学生らが不法事犯を惹起した時期において、被告人Q、同T、同Jおよび同Oを除いて、いずれも検挙されることなく過し、右四名も昭和四五年の前半において一回検挙され起訴猶予となつた後は無事に経過して今日に至つているところをみると、いずれも最近はその行動を自重しているとみられること、

(5)  被告人Bおよび同Pについては、本件公務執行妨害においてかなり積極的に実行行為をしているが、被告人Bは当初から公判廷における態度も他の被告人らに比して消極的であつたし、今は母親らによる熱心な指導が期待でき、また被告人Pは犯行時少年で、捜査段階においては本件について深く反省し二度とこのような行為をしないと誓つているし、現在は定職についていること、

(6)  被告人Wは、現在医師として活動し、家庭には同じく医師である妻もあり子供も生まれたという事情が認められること

等を考慮すると、いずれも今直ちに実刑に処するよりはむしろ刑の執行を猶予し、社会生活を通じてその精神的成長に期待するのが相当であると考える。

その外本件の全被告人については、公判当初の統一公判要求等の見地からする激しいグループ別審理拒否の態度はともかく、途中より態度を改め、必ずしも満足はしなかつたらしいものの兎も角訴訟法に従つて防禦活動をするに至つたことは、ひとりそれにより被告人らの意図・目的が公判廷において世人の前に明らかにされたというだけでなく、裁判制度を認めて、そこに於て、自己の主張の当否について判断を受けようとする点で当然のこととはいえ法治国に於ける国民の態度として正当なものがあつたとしなければならない(いわゆる統一公判貫徹組が一種の政治闘争的立場からあくまで統一公判以外の審理方式を拒否し、統一弁護団がこれを支持してわが裁判史上いまだかつてない徹底した出廷拒否闘争を続け、保釈後も退廷戦術をとり、結局欠席判決―((この場合形式的意味のそれ即ち刑訴二八六条の二の適用の場合のみを指すのでなく、実質的意味のそれ即ち刑訴法三四一条により退廷させられたままの審理を意味する))―のやむなきに至らしめたことは、ただに被告人らが与えられた正常な攻撃防禦または権利主張の機会と利益を自ら放棄したというにとどまらず、法と秩序の根元である一国の裁判制度をないがしろにする点で甚だ不当な態度というべきである)わけであり、この点は全被告人についても有利に評価すべきものと考える。

なお付言するに本件においては極く一部の被告人を除き情状立証のなかつたことは、誠に遺憾であり、そのために被告人らの現在の生活状況心境等が必ずしも明瞭でないまま(当裁判所から被告人らにその点を質問しても、被告人らは本件に関係がないとして答えなかつた)、判決しなければならなかつたのであつて、この点はやはり弁護活動自体のあり方としては再考を要するであろう。

よつて、主文のとおり判決する。

(熊谷弘 磯辺衛 金谷利広)

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